人面弾丸の怪!アメリカ大統領暗殺異聞

奇談

1881年7月2日、米国を震撼(しんかん)させる事件が起きた。アメリカ合衆国第20代大統領・ジェームズ=ガーフィールドが撃たれたのである。

ガーフィールド大統領暗殺事件の図

ガーフィールド大統領暗殺事件

ガーフィールド大統領は、敗血症や感染症と11週間の苦闘を続けたのち、9月19日に死亡。エイブラハム=リンカーンに次いで史上2人目の暗殺された大統領となった。

この米国史に刻まれる大事件には、世にも奇妙な後日談があるのをご存知だろうか?

人面弾丸事件についての記事

弾丸は奇妙な形を取った
―『ロサンゼルス・ヘラルド』1906年3月25日

それは名付けるなら、「人面弾丸事件」とでも呼ぶべき出来事である。大統領暗殺事件の知られざる裏話に迫ってみよう。

人面弾丸事件

「人面弾丸」とは何か?そして、それはどのようにして生まれたのか?

大統領銃撃事件の後、その卑劣な暗殺者を暗殺しようとした男がいることはあまり知られていない。

引用 Twitter

メイソン軍曹である。アメリカ陸軍第二砲兵連隊B中隊所属の彼は、暗殺犯が収監されている刑務所の警備を自身の部隊が命じられたのを好機と捉(とら)え、暗殺犯を撃ったのである。1881年9月11日の出来事であった。

『ロサンゼルス・ヘラルド』が伝えているところによると、この時とても奇妙な現象が起こったという。メイソン軍曹の放った弾丸は暗殺犯・チャールズ=J=ギトーを仕留め損ねたが、その独房の壁にぶつかってペシャンコになり、暗殺者の横顔そっくりの形につぶれたというのである。

どのくらい似ているの?

『ロサンゼルス・ヘラルド』は親切にもその弾丸のイラストを載せてくれているので、どのくらい似ているのか比べてみよう。

ギトーを撃った弾丸のイラスト

※上掲の新聞記事から引用

こちらが暗殺犯・ギトーを撃った弾丸である。

 

チャールズ=J=ギトーの横顔

チャールズ=J=ギトー(1841-1882)

そしてこちらが、チャールズ=J=ギトーの横顔だ。う~む、言われてみれば似ているような気がする。

 

ギトーの横顔と弾丸の比較

こうして並べてみると、確かに輪郭線が驚くほど一致しているのが分かる。

 

ギトーの肖像に弾丸のイラストを重ねた図

もはや、このように重ねてみても違和感がないほどである!これはスゴイ。確かに人面弾丸だ。

そもそもこの話は本当なのか?

しかし、賢い人はすでに気付いているだろう。メイソン軍曹によるギトー銃撃事件があったのは1881年で、『ロサンゼルス・ヘラルド』の記事が書かれたのは1906年だ。事件から25年もたっており、後付けの作り話ではないかという疑念が拭(ぬぐ)い切れない。

ここはやはり同時代史料を見なければ。そう思って調べてみると、何とこの珍現象は事件からわずか2か月後には世間に知られるようになっていたのである。

フォーテスキュー市長のギトー訪問を伝える記事

フォーテスキュー市長がワシントンで
ギトーを訪れ、その大の悪党と話をする
―『レブンワース・タイムズ』1881年11月15日の記事(一部)

カンザス州レブンワース市長のフォーテスキュー氏は、かねてからギトーと知り合いだったので、ワシントン滞在中に刑務所に立ち寄り彼と面会した。

「やあ!ギトー、元気かい?」
ギトーはにわかに顔を上げ、その狡猾(こうかつ)な眼差しを帯びつつ答えた。
「私は元気だが、ここから出たい。マラリアが健康にさわる。」

ー『レブンワース・タイムズ』の記事本文より

この面会がきっかけとなり、フォーテスキュー氏は例の珍現象を知ることになる。

メイソンのギトー銃撃の奇妙な後日談がある。それはまだ一度も活字になっていないのだが、本タイムズ紙が今、この件を初めて公開する。

メイソン軍曹がギトーに発砲したとき、ギトーは、弾丸が彼を叩くことは不可能だったろう独房の隅に立っていた。しかし、弾丸は奇妙な方向転換をした。それは迷信的な人々に畏怖の念を抱かせるものだった。独房の窓の3番目の格子に当たった後、そこはギトーがナイフで印を付けていた場所だが、弾丸はそれ、側壁を打ち、最後に隅に掛けてあったギトーのコートに入った。コートのポケットには彼自身の小さなカード写真が入っていたが、弾丸はその写真を貫通しており、写真の頭を切り抜くと、壁でつぶれて平らになった。拾い上げてみると、弾丸は男の頭と顔の正確な形を取っており、その符合は完全無欠さと仕上がりにおいてほぼ完璧だった。髪の毛を表す頭の細い線までも。この奇妙な現象を刑務所当局はまだ報告していないが、同当局はフォーテスキュー市長に、弾丸が拾われたときの外観から切断されたり何らかの方法で変更されたりしていないことを保証した。

ー『レブンワース・タイムズ』の記事本文より

そして、フォーテスキュー市長がこのことを語ったことで、この奇談は世間に知られるようになったのである。

フォーテスキュー市長へのインタビュー記事

驚くべきこと
キャピタル紙への特電

レブンワース発、11月19日―タイムズ紙
数日前、東部から帰還して間もなくのフォーテスキュー市長に対して興味深いインタビューが行われた。フォーテスキュー市長は何年も前からギトーと知り合いだったので、ワシントン滞在中、彼と面会するため刑務所に立ち寄った。彼はまた、ギトーに対するメイソンの暗殺未遂に関連した、まだ活字になっていない注目すべき事件についても語っている。

ー『トピカ・デイリー・キャピタル』1881年11月20日の記事(一部)より

お分かりいただけただろうか?この話は事件と同時期の文献にも出てくるので、恐らく事実と考えて良いのである。

事件後、人面弾丸のレプリカがヒット商品になる

そして、この奇妙な偶然の産物は、これまた奇妙なブームを生むのである。いつの時代も商売上手とは居るもので、この話を聞きつけたとある商人が弾丸の複製を販売することを思い付いたらしい。

人面弾丸のレプリカ販売を伝える記事

(前略)その弾丸は当時非常に好奇心をそそり、進取の気性に富んだ商人が、オリジナルの鉛から鋳型を作ることについて刑務所長・クロッカー氏の許可を得たそれ以来、何百もの小さな鉛の横顔が、正確な複製であるという刑務所長の証明書が添えられて販売され、その気味の悪い物は町のあらゆる男と少年のポケットの中に入っていたそれらは醜悪なおもちゃ或いはおみやげであり、その鈍くて不規則な金属片は真っ直ぐな額、長くて細い鼻、そして尖ったアゴを伴った悪相を示しており、まるでギトー自身がその肖像のために完璧に座っていたかのようであった。(後略)

―『サン・アントニオ・ライト』1882年3月29日の記事より

何とも馬鹿げた話だが、もし私が当時の米国の少年だったなら、きっとこの商品を欲しがっただろう。

語り継がれる奇談

一人の軍人の義憤(ぎふん)が生んだ怪奇譚は今日(こんにち)ほとんど知られていないが、それでも折に触れて語り継がれることとなった。例えば1965年ケネディ大統領の暗殺から2年後に再びこの話が新聞で取り上げられている。

メイソン軍曹の息子が事件について語った記事

ガーフィールドの仇討ち人
息子、父の偉業を語る
ー『フリー・ランス・スター』1965年10月27日

事件当時の新聞記事から引用しつつ、メイソン軍曹の息子が語った話を伝えている。不鮮明ながら、「グロテスクな使用済みの弾丸(Freakish Spent Slug)」とのキャプションを付し、問題の弾丸の写真らしきものまで掲載している。この時点で事件から84年、残ってるものなんだなあ。

ちなみに、右上の写真の二人が事件当時の当の息子とメイソン夫人である。これまた忘れ去られた話だが、事件後メイソン軍曹が軍法会議で懲役8年の判決を受けると、多くの米国民が「不公正な判決」に怒り、彼の恩赦を求める署名を行い、残された妻子を支援するため「1ペニーをベティと赤ちゃんのために(A Penny for Betty and the Baby)」運動を巻き起こしたのである。

こうした活動が功を奏して、多くの寄付金が集まるとともに、事件から約26か月後の1883年11月、ついに当時のチェスター=A=アーサー大統領がメイソン軍曹に恩赦を与えることとなった。

おわりに

以上、ガーフィールド大統領暗殺事件の世にも奇妙な後日談でした。「事実は小説よりも奇なり(Truth is stranger than fiction)」とはよく言ったものですね。

ちなみに、因果関係は不明ながら、この話が世に出た直後から暗殺犯・ギトーのサインを求める人々が急増したようですよ(『フランクフォート・ビー』1881年11月25日)。これについては、こちらの記事をご覧ください。